紫煙が月を隠していた。
それも薄れて、月に一筋の煙が走る。
雲は無く、黒々とした闇に月が精一杯の自己主張をしていた。
稚拙だな、とも思う。
煙草を吸う自分が。
月を見上げて酔う自分が。
しかし、最早依存となったソレは止めることは出来ず、またその自分に酔っていた。
詰まるところ、僕は稚拙だった。
夏も終わり、秋を迎えようとする夜は少し肌寒い。
雲の無い空に代わって紫煙が月を隠し、また覗かせる。
「することが無いなあ」
誰へともなく、呟いた。
することがないというのは、嘘だ。
ゴミの散乱した部屋を掃除出来たし、柄にも無くノートを手にとって勉強も出来る。むしろ、それらは今の僕にとってはしなくてはならないことだった。
でも僕はそれをする気はなかったし、最初から勘定に入っていなかった。
「することが無いなあ」
また呟いたが、返す者はいない。当然だ。親はきっとテレビでも見ているのだろう、ベランダに居間から漏れるニュースを伝える音が細々と届いていた。
することが、無い。
今度は心の中で呟いた。そう、僕は本当にすることが無かった。
屁理屈ではあるが、僕が部屋を掃除しまいが勉強しまいが、日常は止らない。きっと何とかなってしまうのだろうし、過去それで何とかなってしまった。
66億分の1。それが僕の存在。
数字にしてみればあっけないし、実際はもっとあっけない存在だった。こうして思春期じみた悩みを僕が抱えていることは、世界に何も影響を及ぼさない。流れるだけ流れていく。
そんなことは、誰もが一瞬考え、諦め、日常に戻る些細な悩みだ。いや、考えもしない人の方が多いのかも知れない。考えたところで答えは出ないし、何の意味も無いからだ。
僕は小説が好きだった。いや、その世界が好きだった。
主人公は大抵、僕らとそう大して変わらない。
平凡な容姿で、平凡な性格。普通の生活を普通の感情でもって暮らし、日々を生きる。
しかし、彼らは僕らとは違う。
ある日突然、本当に偶然、どうでも良い理由で"違う世界"に巻き込まれていく。
例えばそれが、世界の危機を救う旅であったり。
例えばそれが、自分の中の闇と戦う事件であったり。
羨ましい。それらの出来事は僕には起こりえず、そして僕が祈り続けるものだ。
彼らはその中で苦悩する。悩み、悲しみ、涙し、怒る。辛いのかも知れない。面白く見えるのは、僕らがあくまで傍観者で、その出来事を眺めるだけの存在だからかも知れない。
それでも僕は羨ましかった。そういう、"違う世界"が。
無いモノねだりなのかも知れない。
思えば小説という奴は、ほとんどの場合はそれを体現している。
使えるはずのない魔法が使えたり、あるはずのない未来で生きていたり、そもそも住む星が違ったり。きっと、みんなが"こういうことがあったらいいな"と思うことを文字で表したものが、小説なんだろう。
起こり得ない。万人が思い、書いても、それは起こらない。
だからこそ憧れる。人間のエゴ、ここに極まり、だ。
悔しかった。
そう、僕は、普通の生活でありたくなかった。
僕の言う"普通の生活"より遥かに辛く、そんなことさえ思うことの出来ない場所はこの世界にもある。生きることすらままならず、銃弾に怯え、明日に怯えるような。
それを考えれば、それはもう、おこがましいほどの我侭なんだろう。
でも、知ったことじゃない。
そんな生活を僕は知らないし、知らない、見えないものに同情する気もない。
誰しも不満なのかも知れない。たとえ、程度は違っても。
つまらない、つまらない、つまらない、つまらない。
どうしても身に力が入らない。どう足掻いても世界なんて計り知れない、それこそ"知らない・見えない"ものの前に、僕はどうしようもなく悔しくなる。
悔しくて、スリルとか、罪とか、そういう大げさなものが欲しくて僕は紫煙を吐く。
月は動かず、雲もなく、日常以外は何もないこのベランダで、僕は紫煙を吐く。
何をするでもなく、ただ紫煙を吐く。